救済事業の歴史 その8

第一次世界大戦後、日本は好景気となりましたが、その半面、物価の高騰によって、農民や労働者たちの生活は苦しくなりました。そのようななか、米の値段が暴騰したため、1981(大正7)年に富山県の漁村の主婦たちが反対運動を起こし、それが全国に波及し、いわゆる「米騒動」となって広がっていきました。

このような社会状況のなかで、1917(大正6)年、岡山県知事の笠井信一創案の防貧対策である「済世顧問制度」が創設されました。

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そして、翌1918(大正7)年には、当時の大阪府知事林市蔵と小河滋次郎が、ドイツの「得るバーフェルト制度」を参考にして、方面委員制度(現在の「民生委員制度」の前身)を創設し、これが全国に普及しました。

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このように少しずつ、日本の社会事業の骨格ができつつあるなか、1923(大正12)年の関東大震災、1929(昭和4)年の世界恐慌の影響を受けて、大量の失業者や貧困者が街中にあふれだすほど社会情勢は悪化していきました。貧困はもはや個人の責任ではなく、社会構造の脆弱さから起こる現象であることを国は認識することになり、政府は新しい社会事業立法を制定する必要性に迫られました。

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