救済事業の歴史 その9

1929(昭和4)年に「救護法」が制定されますが、財政難から実施が延期され、1932(昭和7)年にようやく施工されました。これにより「恤救規則」は廃止となりました。この「救護法」では4つの公的扶助(生活扶助、医療扶助、助産扶助、生業扶助)が規定されましたが、対象者は65歳以上の老衰者、13歳以下の児童、妊産婦、障害のある者などで労働ができない者に制限されました。しかし、この「救護法」の制限外にいる貧困層も数多くみられ、政府はその対策に苦慮しました。

1933(昭和8)年に「児童虐待防止法」「少年救護法」が制定されました。また、1936(昭和11)年には、「方面委員制度」が「方面委員令」によって法制化され、担当地区内の住民の生活状況の調査、要保護者の状況調査などが方面委員の任務となりました。翌1937(昭和12)年に「母子保護法」と「軍事扶助法」が制定され、1938(昭和13)年に「国民健康保険法」、1941(昭和16)年に「医療保護法法」が続けて制定され、社会事業の法制が整備されました。

このように制度化が進む中、政府は1938(昭和13)年に厚生省(当時)を設置しました。厚生省の設置にともない、すべての社会事業が国によって統制され、施設も戦時生活へ対応するよう切り替えられました。

このように、戦時体制が強化されるとともに、国会統制によって、社会事業は厚生事業に改称となりました。

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救済事業の歴史 その8

第一次世界大戦後、日本は好景気となりましたが、その半面、物価の高騰によって、農民や労働者たちの生活は苦しくなりました。そのようななか、米の値段が暴騰したため、1981(大正7)年に富山県の漁村の主婦たちが反対運動を起こし、それが全国に波及し、いわゆる「米騒動」となって広がっていきました。

このような社会状況のなかで、1917(大正6)年、岡山県知事の笠井信一創案の防貧対策である「済世顧問制度」が創設されました。

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そして、翌1918(大正7)年には、当時の大阪府知事林市蔵と小河滋次郎が、ドイツの「得るバーフェルト制度」を参考にして、方面委員制度(現在の「民生委員制度」の前身)を創設し、これが全国に普及しました。

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このように少しずつ、日本の社会事業の骨格ができつつあるなか、1923(大正12)年の関東大震災、1929(昭和4)年の世界恐慌の影響を受けて、大量の失業者や貧困者が街中にあふれだすほど社会情勢は悪化していきました。貧困はもはや個人の責任ではなく、社会構造の脆弱さから起こる現象であることを国は認識することになり、政府は新しい社会事業立法を制定する必要性に迫られました。

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救済事業の歴史 その7

明治時代のジャーナリスト横山源之助は「日本之下層社会」のなかで、貧困者たちの実情について著し、政府による対策の必要性を訴えました。

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また、明治時代の救済事業の一つに、欧米の影響を受けたセツルメント・ハウスがあります。その先駆けとして、イギリスのトインビー・ホールにならったキングスレー館が1897(明治30)年、片山潜によって東京神田に設立されました。

このほか、組織的な慈善協会として、アメリカのCOS運動に影響を受けた「中央慈善協会」が1908(明治41)年に設立されました。この中央慈善協会は現在の全国社会福祉協議会の前進でもあり、初代会長に渋沢栄一が就任しています。

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救済事業の歴史 その6

石井亮一は、日本で初の知的障害児施設である滝乃川学園(設立時、孤女学院)を1891(明治24)年に設立しました。

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1899(明治32)年には留岡幸助が、現在の児童自立支援施設にあたる巣鴨家庭学校を設立しました。

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1900(明治33)年には、野口幽香と森嶋峰が二葉幼稚園を設立しました。

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救済事業の歴史 その5

民間の篤志家たちによる救済事業も次々と始まりました。

なかでも、児童保護事業が中心となり、1887年(明治20年)には石井十次が岡山孤児院を設立しました。

この岡山孤児院では、岡山孤児院12則とよばれる、生活するうえでのルールを決めていました。

たとえば、「家族主義」は、子供たちは小集団に分けられて、保母(今の保育士)と一緒に小舎で生活すること、「満腹主義」は、おなかいっぱい食べることで、心が豊かになり悪い習慣もなくなっていくこと、「密室教育」は、ほめるときも叱るときも、ほかの子供たちの前ではなく、別室で行うことなどです。

このような考え方は現在の児童養護施設の運営にも大きな影響を与えています。

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